栄養が十分な食事でも、健康につながらないことがある
慶應義塾大学教授の満倉靖恵さんは、脳波から人の感情を読み解く研究を行なっている。
誰もが忙しい現代において、時に食事は「栄養さえ摂れればよい」と考えられがちだ。しかし、満倉さんはそんな状況に疑問を投げかける。
「食事と人の感性には深い関係があり、食べ方やシチュエーションは、心と体の健康に大きく影響しています」
満倉さんは、健康維持のために必要な栄養素をすべて含んだ完全栄養食を例に挙げる。
「完全栄養食というものが登場して、忙しいビジネスマンを始めとした一部の方の中で流行っていますね。体力が落ちているときや十分に食べられないときに有効活用している人もいますが、完全栄養食だけを食べ続けていたら、心が荒み、体調を崩したという報告もあります。
栄養バランスが良いのに体調不良を引き起こしてしまうのは、その人にとって食事が単なる作業となり、ストレスになっているからです。こうしたストレスが原因で、栄養の吸収量が減ってしまうことも分かっています」
満倉さんは、具体的な研究の一例として、マウス実験の話を教えてくれた。
「マウス実験では、つがいで生活をさせて餌をあげる場合と、1匹だけで生活させて餌をあげる場合では、フンの中に入っている栄養素が違うことが判明しました。それほど、食べている時の感性や感情が、栄養の吸収のされ方に関わっているんですね」
食事は人と関わりを持ちながら、一緒に楽しく食べることが大切だと満倉さんはいう。
「外食でもいいので、人と一緒に食べる機会を増やしたほうがいいですね。気を付けていただきたいのは、誰かと一緒に食事をしたとしても、テレビやスマホなどに熱中しすぎないでほしいということです。
意識して食べなければ意味がありません。『このお米はおいしいね』『これは何からできているの?』など、食について会話をしながら楽しく食べるのがいいでしょう」
味を考えながら食べるだけで脳は活性化する
食を楽しみ、味の違いを意識することは、脳にとっても非常にいい影響を与えているという。
「味を感じる時、脳の味覚野という部分が働いて、すごく活性化します。例えば、『これはこんな味がするんだな』と考えながら食べたときの脳は数字パズルゲームの「数独」の初級編であれば3問分の活性化に相当するほどのレベルで働いているんです」
しかし、食に関心がなく、味の違いが分からない若者が増えていることを満倉さんは実感している。
「私の周りでも、食べ物の味の違いが分からない学生が多いと感じています。安い寿司と、高級なお店の寿司を並べて食べてもらっても、味の違い、良し悪しが分からないんです」
また、脂っこく味の濃いものを食べる機会が多いことも問題のひとつだ。「子供の頃から、味の強いものばかり食べ続けていると、繊細な味が分からなくなってしまうのではないか」と満倉さんは指摘する。
「味の違いが分からなければ、何を食べても驚きや新しい発見がありませんよね。すると食事がルーティンになってしまい、脳の活動量が減ってしまうんです。それを防ぐためには、子供の頃から味について考えながら食べる習慣を付けることが重要です」
味について考える習慣があれば、一人で食事をしても、脳を働かせて食べることができる。たとえ家族との食事時間がずれてしまったとしても、少し声をかけるだけでもよいという。
「言葉をかけてあげるだけで、『あ、違うんだ』と考えて食べることができるんです。たったそれだけのことでも、子供の脳の働きや、食への関心が大きく変わります。
自分が何を食べているのか、よく理解しないまま食事をしている子供がすごく多いと思います。食卓では『今日の卵焼きは味付けが違うよ』とか『おにぎりの具は何かな?』と声をかけて考えながら食べるきっかけをつくるだけでもいいんです」
誰かのために料理をすると、作る人も食べる人も幸せになる
最近では、食べ物や飲み物を調理する過程も、人の感性に影響を与えていることがわかってきたと満倉さんは語る。
「未就学児を対象に、親のために飲み物を作ってもらい、“愛情ホルモン”と呼ばれるオキシトシンの数値を測定する実験を行ったことがあります。すると、自分のために作った時よりも、親のために作った時の方がオキシトシンの濃度が上がっていたんです。
人のために食べ物や飲み物を作ることで、互いの愛情ホルモンにいい影響を与えているんですね」
人の感性の視点から食べることを分析する中で、満倉さんは誰かのために料理をすることや一緒にごはんを食べるということが、うつ病の治療にも有効ではないかと想像している。
「ある実験では、うつ状態を示すマウスにつがいで食事を摂らせると、うつが改善するという結果が出ました。まだ仮説の段階ですが、うつ病の方が誰かと一緒に食事を作ったり食べたりすることで、病気にいい影響があるかもしれないと考えています」
うつ病を患う人の中には、孤独を感じている人が多くいる。そうした人々が、食をきっかけに変わっていくことを実証するのが、今後の目標のひとつだ。
「人の感性と食の関わりが分かり、食べ方の重要性が解明されつつあるものの、まだまだ十分に光が当たっていません。こうした研究をすすめて社会に貢献することで、もっと多くの方に知ってもらいたいですね」
満倉 靖恵
慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授。徳島大学大学院博士後期課程、東京大学大学院医学研究科で学び、1999年徳島大学助手、2002年岡山大学講師、2005年東京農工大学助教授(のち准教授)に。2011年慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科准教授に就任。2018年、同大学教授に。信号処理、機械学習、パターン認識、人工知能、統計処理などの技術を用いて、生体信号や音声、画像から情報を抽出する研究に従事。現在は脳波と画像を扱い、社会に役立つ研究や医学との融合を中心に取り組んでいる。
取材日/2020年1月