切れ味の良さは、素材のおいしさを最大限にする
一流の料理人達が熱狂して集う場がある。三重県松阪市にある月山義高刃物店の3代目・藤原将志さんが指導する、包丁の「研ぎ」講習だ。
藤原さんは、全国各地で講習を行なっている。プロの料理人達がこぞって受講しているのはなぜなのだろうか?
「一流の料理人でさえ、包丁を研ぐことが、苦手な方が多いんです。その原因は、日本の伝統産業が抱えている問題と同じで、『見て盗め』という風潮が非常に強いからだと思います。これまで、包丁の研ぎ方を人に教えるところまで言語化した人が存在していないことが大きな問題ではないでしょうか。
ロジカルではないから、みんな自己流でやるしかない。それが何世代か続いたために、何がポイントでどうなれば正解なのか誰も分からなくなってしまっているんです」
包丁を研ぐことで得られるのは切れ味の良さだけではない。藤原さんは切れ味によって食材の味が変わることを、世界で初めて科学的に証明した実績がある。
「奈良産業支援センターの協力で、味覚センサーを使って『切れ味で味が変わる』という数値的証明を取りました。検査は、トマト10個を半分に切って、それぞれを切れ味のいい包丁、切れ味の悪い包丁で切ってから、鍋で煮詰めます。
そうして出た抽出液を分析器にかけたところ、切れ味の悪い包丁で切った食材は、苦味や雑味の成分が非常に増えたんです。魚だと生臭さ、野菜でいうと苦み、えぐみといった味が強く出ることが、多くの料理人達による食べ比べの実験でも分かりました」
その結果は、見た目にもはっきりと現れていた。切れ味の悪い包丁で切ったトマトは断面が潰れ、煮詰めると大量のアクが出て煮崩れてしまったのだ。
▲写真左が藤原さんが研いだ包丁で切ったもの、写真右が切れ味の悪い包丁で切ったもの
一方、切れ味のいい包丁はそういった苦味や雑味が圧倒的に少なく、煮詰めてもアクが出なかった。
野菜嫌いな子供達に切れ味のいい包丁で調理した野菜を食べてもらったところ「これなら食べられる! どうして?」と驚きながら、積極的に口に運んでいたそうだ。切れ味の悪い包丁で調理した野菜は「食べられない」と拒否されてしまった。
「切れ味の悪さは、ネガティブな風味をグッとあげてしまうので、調味料を大量に入れないと味がまとまらなくなってしまいます。切れ味のいい包丁だと、野菜だけではなく、お肉も臭くなりません。だから必要以上に香辛料を使わなくて済むんです」
▲写真左は藤原さんが研いだ包丁、写真右は一般的な方法で研いだ包丁
研ぎ澄まされた包丁があれば、食材は無駄にならない
切れ味の良さは鮮度の良い食材のおいしさを長持ちさせる効果もあると藤原さんは言う。
「切れ味のいい包丁で切った食材は、鮮度が保たれることが分かっています。切れない包丁で切ったりんごは、断面がすぐに黒ずんでしまいますが、切れ味のいい方は時間が経っても綺麗なままです。塩水に浸す必要もありません。
煮込み料理も長持ちする可能性があります。ミネストローネを日本食品分析センターで検査していただいたところ、菌の発生が少なく鮮度が保たれていることがわかりました。また、煮込み料理は長く持つだけでなく、時間を置くことで旨味が増して味に奥行きが出てくるんです」
薬味に使うネギなら冷蔵で1ヶ月は鮮度が保たれ、レタスの断面が赤く変色することもないという。
「私の推測ですが、切れ味の良い包丁は、断面の細胞を壊さないことがポイントかもしれません。細胞が壊れて死んでしまうと、その部分から腐ってしまいます。スパンと綺麗に切り離すことで、細胞を潰さずに生きている状態を保つことができるのではないでしょうか」
食材の鮮度をキープできるということは、廃棄ロスの削減にも効果が期待できる。
「講習を受けていただいた料理人の方から、実際にロスが減ったというお声をいただいています。お好み焼き屋さんからは『キャベツの持ちが全然違う』と言われました。
お寿司屋さんにはマグロの塊を買ったら、研ぎ上げた包丁で外周をすべて削るようアドバイスしています。お寿司屋さんに届くまでの間に魚屋さんがどんな包丁で切ったのか分からないので、そこから傷み始めるのを防ぐためです」
世界に誇れる日本の「研ぎ」文化の復興と継承を
藤原さんが「研ぎ」の大切さに気づくきっかけになったのは、大学卒業後、東京の百貨店の刃物売り場での修行時代だったという。
「お客様に包丁をすすめるための証拠が何ひとつないことに気づいたんです。先輩や鍛冶屋さんに聞いても何が良い包丁なのか、根拠を教えてくれない。それがずっと疑問でした」
そこで藤原さんが行ったのは、「包丁をすすめる証拠」をまずは科学的に見つけること。科学的な解明が難しい場合には、料理人を巻き込んで実証実験を繰り返した。そしてその活動の中で「おいしく切れる切れ味」の存在に気づいたのだ。
その切れ味のためにはもちろん研ぎも重要になる。どうすればそのことを社会に伝えることができるのだろうか? そう考えて始めたのが、プロの料理人への包丁研ぎ講習だった。
「今、トップクラスの料理人達が取り組むべきなのは超アナログな技術だと思うんです。仲の良い料理人達は、今やIH調理器や多機能な炊事家電を使えば、誰でも70点の料理を作ることができると言います。
健康的でおいしい冷凍食品が出てきているので、家庭料理でもある程度一定水準以上の料理を作るのが簡単になってきている。この状況で、家庭の食卓との味の差別化をどうやって出していくのか、という戦いが起こってくると思います。
そういった時に、包丁を研ぐことで、食品ロスを少なくするだけでなく、食材が持つポテンシャルを最大限に生かした味が出せる。その重要性を理解してくれるプロの料理人にターゲットを絞ることにしています」
藤原さんが見据えているのは、日本だけでなく世界的な刃物業界での文化の普及だ。日本の高品質な刃物が海外にも大量に販売されている中で、「研ぎ」の文化の重要性が増しているという。
「『研ぎ』について知っていただく活動をしていかないと、日本の刃物業界は無くなってしまうかもしれない。『研ぎ』の文化は、見てすぐに盗めるものではないからこそ、世界に対してメイド・イン・ジャパンの価値を示すことができると思っています」
藤原さんは研ぎの技術を多くの人に伝えるための方法を模索しているところだ。
「私が目的にしているのは『研ぎ』文化の伝達であり、復興です。自分にしかできない技術には価値がないと思っています。それでは私が死んだら終わりじゃないですか。
私1人ができる仕事量には限界があります。だからこそ、研ぎの技術をできるだけ言語化して教え、文化を伝えていくことに大きな意義を感じています」
藤原 将志
三重県松阪市出身。1984年生まれ、月山義高刃物店3代目。大学卒業後、東京の大手刃物店に入社。営業部に配属され、高島屋立川店の刃物売り場責任者を務める。その後、高島屋日本橋店、新宿店の売場責任者を任される。2010年に退社し、月山義高刃物店を継ぐ。2012年、切れ味による味の変化の研究を始める。2017年に一般社団法人日本包丁研ぎ協会を設立し代表理事に就任、研ぎ文化の発信に努める。監修本に「包丁と砥石大全: 包丁と砥石の種類、研ぎの実践を網羅した決定版! 」(監修:日本研ぎ文化振興協会・誠文堂新光社)、「英語訳付き包丁と研ぎハンドブック 包丁と砥石の種類、研ぎ方がわかる/月山義高刃物店」(誠文堂新光社)など。
取材日/2019年10月